Roxana

なるほど。
健常者と障碍者に対立利益が在って、一意的に帰属が決定しないリスクとなっているのですね。

この議論の外見としては、こうです。

この物語を伝える現存唯一の資料は、4世紀のラクタンティウス『神的教理(英語版)』第5巻の正義論を扱う箇所である[1]。同箇所は、おそらく前1世紀のキケロ『国家について』第3巻に伝えられた物語を下敷きにしているが、『国家について』は断片的にしか現存しておらず、当該部分は散逸している[1]。しかし当該部分の前後は現存している[1]。そこからの推測によれば、カルネアデスが前2世紀に外交使節としてローマを訪れた際、正義に対する懐疑論としてこの物語を披露し、哲学という学問をまだ知らなかったローマ人たちに衝撃を与えた[1]。 

カルネアデスの板-Wikipedia

  1. 正義論であること
  2. 「哲学」というexegesis(釈義)乃至解釈論であること

ですから、

 


  1. I know the least of my demerits merit this miserable death ;
    but wilfull striuing against knowne truth exceedeth all the terrors of my soule
  2. It cannot be but he was murdered here ; 
    The least of all these signs were probable.

をもう一度思い出したい。
1はシェークスピアと同時代人の 、2はシェークスピアの「リア王」である。
1は再帰的な叙述の見事な例である。しかし、要は、哲学(解釈)を超えて神学的であることから、演繹的な発想になっている一方、シェークスピアは、まさにサスペンスフルな帰納(経験)的な発想になっている。


1は文法的には、「絶対比較級」だが、論理構造としては、関数化されているのではないかと思う。
(私にはわからないが)ある高度な数学になると、具体的な数式の持つ構造の限界から解くことがある。

ここで関数 x*(p) は f(x) の導関数 f'(x) の逆関数である

ルジャンドル変換-Wikipedia

ここで逆関数は、全単射が成立していることを言っている。
the least of my demerits”の””the least”が「絶対比較級(実際の比較ではない)」のは、レトリックとしては「いちいち比べるまでもない」ことを言うが、構造的には、「(my)demerit 一般」について言っている。
それはともかく、”demerits”と”miserable”と”terrors”の繋がりである。
この単純な和訳である「欠点」と「悲惨」と「恐怖」には、「形象」と「評価」と「感情(徳)」に共有されている価値がある。ガザ―リーから理解すると、「意志」の基準となる”knowne truth”に関する後段が、すなわち;で繋がれるべき文の主旨が、理解できる。

図式化してみる。

主体 主語 述語 目的語 性質 態度(評価) 感情
車椅子の人
  1. 譲ってください
  2. と言う
  1. エレベーターの空間
  2. whom?
権利 嫌われる(乗れない)

「カルディアスの板」を図式化してみる。

主体 主語 述語 目的語  性質 態度(評価) 感情
社会 難破船の遭難者
  1. 譲らない
  2. 殺す
  1. 別の遭難者
権利 許される(殺されない)

実のところ、「性質」が「主体」と「感情」を繋いでいることがわかる。
「カルディアスの板」は法学上「緊急避難」の例とされ、「正当防衛」とともに違法性が阻却される事由であるが、そういうことではなく、「懐疑派」のカルディアスが、哲学的に思弁するがゆえに、言及したことである。すなわち、哲学の言及構造そのものに言及したと思いたい。それは社会的にあらかじめ決定されていなければならない。

  1. 権利(利益の主張の正当性)は平等に付与されている
  2. 或る先行利益がある
    (或る遭難者は難破船の板を掴んだ)
  3. それは偶然に係る
    (海に等しく投げ出されたとき、難破船の板は偶々目の前に流れていた)
  4. その「偶然」は偶然にかかる
    (船が遭難することは予定していなかった)
  5. その先行利益は正当に評価される
    (その板は、先に掴んだ者に帰属する)
  6. 付与される利益の不平等を正当化する
    (同じように偶々海に投げ出されたものは殺されても仕方がない)

「殺人」という故意が問われるのだが、二重の偶然を通して(予期に関して責任:社会的不利益命令を問う)「過失」化して、その「過失」は問えない(不利益を命令されない)と飛躍しているような印象を持つ。
言い換えると、意志が浄化されている。故意の反対は過失だが、この過失の反対が(故意に返らずに)「意志でないもの」ではない、となって、これに言及して「「過失」ではない」利益を導いている。二重化する意義がここにある。

だから、「殺されても仕方がない」のだが、まるで「死んでも仕方がない」と言っているような印象を与え、実際、そういう受け止められ方をするだろう。

これには、中世カトリック神学の二重規範、20世紀の「トロッコ問題」と同じく様々なバリエーションを生みそうである。


そこで、車椅子利用者のエレベーター搭乗問題が、そのバリエーション足りえるかを考えることになりそうです。

  1. 今、エレベーターには1人が搭乗する分の余裕しか残っていない。
  2. 車椅子が搭乗するには2人分の余裕が必要であり、誰かが、先行利益を放棄しなければならない。
  3. このとき、後方から1人、その「板」にしがみついた。

この「板」に関して、誰の先行利益の主張を代弁すべきでしょうか。
これはあくまで偶然の問題であり、したがって社会決定に係る問題ですが、(「カルディアスの板」と異なり、目的と成る事実そのものではなく)主語と成る事実乃至言及そのものが偶有性を付随しています。
※カルディアスの板の大前提(1)として宣言されていたことは権利の平等であるが、これは遭難者が「等しく、板を掴める」ことに根ざしていた。
ここで「等しく、利益を有する」ことは、「言及」のレベルに後退する。
すなわち、板の「発見」、板への「接近」、板を「掴む」の条件が等しくないからであり、最初の「発見」に関して「先取権」を有するかが問われている。
このとき、健常者が「無過失責任を負う」とすると、すでに搭乗している者の中での「先行利益」を認める必要が出る。その「先行利益」はあくまで偶然であって、いまだ「潜在利益」でリスクが確定していなかっただけであったことになる。エレベーターのドアが閉まる前に「発見」されなければ、初めて「確定」となる。つまり、「早く閉まれ」と言えば済むわけでもない。なぜなら、「接近」に不平等があるから、「カルディアスの板」とならない。

だから、社会的多様性の問題となります。


暗黙の了解を声高に確認したときに催すものは、癪に障る、というレベルの話です。
「癪」ですから病気です。
感情問題ですから、「社会的病弊」と言います。

難しい問題ですよ。誰だって固有の事情を抱えていますからね。
それでも社会的規範として確立できるかどうかです。