メモ

英語学と言語学の対立に関するメモ(勉強不足で考えがまとまらない)

  • 可読性と発達⇒認識を対象化して理解する行為(順序的)と事後的な認識による行為の支配(順序のリセット)
  • 2つの限界。発達の限界と訓練のためのリソースの限界
  • 「クラス」「グループ」などの用語法は正確でない☟
    〈個人〉— 類型化 → 〈クラス〉— 標準化 → 〈マス〉— 公理化 →〈グループ〉— 要素化(枚挙化) →〈個人〉 
    ★〈束〉という考えをどこに入れるか。別に言い換えればラッセル的「指示」をどこに入れるか、入れないか。
    〈個人〉— 演算化 → 〈マス〉—抽象化→〈個人〉
    〈個人〉— 一般化 → 〈マス〉—具象化→〈個人〉
  • 英語はその発展経緯から一種のクレオールであるとし、認知心理学は想起文法に親和的であると仮定する。ここで、クレオールは、各主体の属性を措定したうえで、すなわち、各言語使用主体にはその言語特有の構造に基づく最適化(効率化)性向を持つとし、使用法を合理(共有)化する。つまり、クレオール性を考慮することで、普遍文法(言語一般)— 生成文法(言語固有)— クレオール文法(言語共有化)の見方を提示する。このとき、想起文法が遂行的であるとする。

—What do you think the difference is between 'class' and 'group'?
—In this context, does 'share' have an empirical meaning, promoting the manifestation of the inherent nature? On the other hand, is 'set equipped' a recognition of the embryonic nature?"
—Does Universal Grammar refer to shared structures between Japanese and English?
—Does Generative Grammar refer to shared structures between Japanese and English?
—Does the term 'creole' refer to structures derived from generative grammar?

☞この方を見ると、自分の用語法はまことに出鱈目極まりないことがわかるが、まぁよい。
cut-elimination.hatenablog.com

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へー。勉強になる。束論(順序集合)か。そうか。 

 

家庭教育の本旨が学校教育との調和(対立構造を持つがゆえに共有される性質を持つとき、その共有に至る経緯)にあるならば、そもそも学校教育とは何かを踏まえたうえで、我が子にとって何が望ましい経緯であるかを考えることと成る。

  1. 学校制度の主旨は、社会(の再生産)を担う成員の再生産である。
  2. したがって、学校制度の対象は、教師と児童(教員の再生産と児童の再生産)であり、この経緯ゆえに、学校制度は一般社会から独立した部分社会である。このとき、社会は、規範化された集団のことであり、それは規律を伴った集団行動として表現される。
  3. 学校組織の使命は、再生産の関数である、成長乃至発達の支援及び補助である
  4. ゆえに、学校組織が持つ動機の傾向は、マス教育(一斉、一方、同時)による成長の支援及び補助にある。一方で、児童が持つ動機の傾向は、発達の支援と補助にある。教員はこれらを架橋する役割を(学校教育の中で)担う。
  5. 家庭教育は児童の利益により沿うよう調和(対立構造を持ちつつ共有を企図する経緯)を求めるが、児童との近接性により、児童が現在および将来の社会との調和に失敗する可能性がある。(親は)家庭教育にあらためて社会標準を導引したうえで、児童の自由の領域(ドメイン)を措定する意義がある。

要は、比喩的に言えば、マス教育をクレオール化して、児童を「新たに生まれる個性を持った人格」として発展させてゆこうと企図するわけである。このとき基準はあくまで学校教育にあることが鍵である。まことに創造的なのだが、児童の将来は完全には予見が不可能なので、戦略(選好を評価する合理的判断)とナラティブ(選好を感情的に推進する物語)を持つこととなる。家庭教育の(学校教育とは異なる)目的は、将来にわたる児童自身による生活の形成とその生活への満足乃至納得もしくは受容である。
したがって、余談であるが、資産形成と学歴獲得なら、それへ資するリソース配分は、資産形成が上位に来る。なぜなら、近代社会に於いては、学歴は都市生活における資産形成に有利であるゆえの限界を持つからだが、(近代社会に於いては、)資産はいつだって生活の基礎を為すからである。それゆえに、家産管理団体(社団)である、「家」とその成員たる「家族」が意義深い(ただし、基本的人権を持つ個人を侵害できない。要は、家族も一人一人は個人であるが、「家」は道具的である—だから、家法が生まれる余地があるのは、道具的排他性を持つとき対立利益を持つからである)。

クレオールとは

言いたいことは分かる。これ水商売の営業トークなんだよね。
別に水商売を馬鹿にしているのではなく、水商売がなぜ「水商売」かということで、これは「信用」を売っているのではなく「健気さ」を売っているんだよなぁ。

—健気とは

この言葉は、しばしば女性や子供の性格を褒めるときに使われることがありますが、男性にも同様に適用されることがあります。健気な態度は、他人に感動や共感を与えることがあり、良い意味での感情を引き起こすことがあります。

 

要は、実は、(成人或いは女性というよりも)「女の子」らしさのアピールなんだよ。

水商売(みずしょうばい)とは、先の見通しが立ちにくく、世間の人気や嗜好に大きく依存し、収入が不確定な業種や職業、およびそうしたものに従事する人を指す日本の俗語である。

水商売 - Wikipedia

「先の見通しが立ちにくく」を見ると、営業における「信用」と共通するかのように見えて、「人気」「嗜好」に「依存」するから、そこにフックをかけるんだよね。
彼女は水商売だよ。

でもこれって、「社内営業」では、日常なんだよね。だから溜息しか出ない。こうやって非難できるのも外販だからで、社内で、アンフォーマルな集団は排除できない。
しかし、それでも、人間は、集団を形成するのだ。

問題は、人格形成期に、将来を悲観せずに目先のことに集中できる精神力を、ホーリズム(利益が努力の総和を超えること)への自信に基礎づけられて、身に付けられるかである。

そう考えると、

markovproperty.hatenadiary.com

(正直仏教とは切り離して)こういった複式簿記的なモチベーションー技術以前の動機において—を獲得できる上手い方法がないかと思案している。これは「情けは他人のためあらず」といったことも含めてであるが。

なるほど。
人間同士やからね。つまり、本質は、人間を超えるところにある。
保険営業の場合は、保険数理だろうね。だから、少なくとも表向きは、「水商売」である必要がない。ただ、人間同士ですからね。