よくまとまらなかった。反省。
私がなぜ仏教に関心があるかと言うと、おそらく仏教は日本人が初めて体験した〈自然哲学〉だからである。論理構造によって世界を捉えるという思考のモデルがなければ西洋の学問受容はもっと歪なものになっていただろう。であるからこそ哲学の翻訳語の多くが仏教語群からの転用も多いのである。
— GrimoireBook (@GrimoireBook) December 23, 2023
(「論理構造」が何を言っているかわからないが※)この見方に賛成。仏教は、そもそも習合的に輸入されたけれど、日本人にとっては、それまでの類比的な体系より実証的な学問だったと思う。それまでは或る意味を求める際は(素朴)帰納的に対照させるのみだったが、仏教伝来以降は、学としての演繹性が強化されたと思う。このような学となってはじめて哲学ならば、この主張に同意できる。
※一説によれば、縄文時代の土偶に、十進法が使われて意義づけられていたとされる。少なくとも初歩的な数概念の習得乃至算術があったはずだ。
「有効でない」という点は賛成だが、哲学的にはあまりよい議論ではないと思う。「善だと感じる」のその「善」の意味自体がすでに事実判断を超えた規範性を持っているので。無理に事実に還元して「人間が何を善だと感じるか」に探究を変えてみても、肝心のその「善」とは何かはやはり謎として残るので。 https://t.co/ipvH1l2qsb
— 永井均 (@hitoshinagai1) December 23, 2023
ラッセルの「指示論」らしい。論理は規則を通じて規範を分離され、「善」の規範性は量化で示される。事実判断を超えているのは、ラッセルによる、それが「指示」ではない主張を覆さない。これが前期ラッセルで、後期ラッセルは、そのように条件化された「規範」が実際の行為に影響を与える事実性に危惧を表明している。
束論とジョージ・ブールをもっとしっかり理解できたら嬉しい。