「最初のライバル」から受ける恒常的抑圧と「姉妹リンチ」を善意でドライブする親の似非平等

あぁ、「兄弟姉妹リンチ」もあったみたい。お姉さん「仲間づくり」して大変なことになっている。

兄弟姉妹は、親の愛情=生存競争をかけた「最初のライバル」の可能性があるから、親もきちんとした対処をしないとヤバくなるかもしれない。それで父親は一応「平等戦略」を採っているかもしれないんだね。

全国優勝ということは体育系なのかね。文化系かもしれないけれど。別に部活とも限らんしね。それはわからんか。
なぜ、これを気にするかというと、動機付けが態度の問題に帰着するからだよね。文化規範ごとに「推奨されるビヘイビア」があって、体育会系には体育会系のビヘイビアがある。それは動機づけられているので、自分では、その問題性に気づきにくい(私なぞは、なんで、問題のある態度とそれをディスプレイするビヘイビアを身に付ける為に部活に入るのかよくわからない—多くの児童にとっては「体験作り(経験と思い出—感情でマーキングした再帰的な自己評価)」のためで(体育の授業だけでは運動量の不足を十分補えないこともあるが、それを理由とすると、文科系の部活動が無意味になってしまう。)、その感情的な拠り所が人格の基礎を形成することが期待されるからだが、しかし、一方で、特にその統治性で、弊害も大きいと思う—旧帝国陸軍の内務班の伝統はそのまま部活動に引き継がれた)。「体育会系」というからおかしいのであって、「内務班系」と言えばよいと思う。そういう文化規範傾向を持っているとわかりやすい。
そう考えると、「昭和の会社」「昭和のモーレツ社員」がどのような性格のものだったかが、わかりやすい。

部活に入って「練習に行きたくない」は一般的に見られると思う。
大学の場合は、「単位を買いに行く」ことの購買行動が、必ずしも内容を伴わない「贖宥状」(シンボル効果)を求める場合もあるけれど(何が罪かということではないが)、普通は、ただ、意義を認めるリテラシーと、固有の不利益を忌避する感情の惹起が併存する場合で、このとき、それを公言することの社会マナーの欠如に対処して感情的解除を目論んでいるのだろうね。

 

良い意味で「妹はすごいの」って思えなかったところだね。これって、「何がどうすごいか」じゃないんだよね、本質的には(これはロマンチシズムの範疇であって、そういうレトリックを使っても、分析的ではない。したがって、取引感情、応報感情でもない)。

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「昭和の子育て」バイブルなんかだと、「もうちょとお姉ちゃんのことを褒めてあげてください」というのもありそうだけれど、今は微妙だよね。褒めたら権威付けされたと勘違いして増長するかもしれないしね。だから、「みんな違ってみんないい」はダメなんだけれど。すなわち、個性の独立は幻想で、固有のバイアスが正当だろうと思う。

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それぞれが現実的な選択の困難を通じて、自己に自信を持って生きるようにする。それを基礎に対等な関係を築くことを目標とする。

倫理的な態度と必須とすることを言っているのだけれど、ジレンマを通じて出ないと難しいのだろう。だから、「みんな違ってみんないい」という素朴実在論では、権威論証となって破綻するのだろうと思う。

金子みすゞは詩人で、直接にはマルクス主義或いは反体制とは関係がなかったのだけれど、美しい詩を書いたこの素朴な人は後にさんざん利用されるに至った(それ自体、酷い、社会的な「罪」だと思う。与謝野晶子の例もある)。戦前思想はすべて「終わった」のだと思う。

 

これは、一緒に読まないと、意義が感じられない。戦後はドフトエフスキーばかり採り上げられすぎ。偏っている。その時点で、「まともな教育を受けていない」と思わないと。