ボゼとデュ・マルセ                      2人の言語学者

デカルトとカントはこれほど著名なのに、内容の半分以上は、出鱈目を教わってきたんじゃないかとの感を強めている。

そもそもデカルトスピノザ以前、すなわち、ラッセルが指摘する通り、主語と述語で論理展開する以前の人で、それについては、高橋が説明する通り実在論であって、それは現在なら、概念的な、したがって、ベン図的な説明になるはずである(この「ベン図的な」は、『アリス』の著者ルイス・キャロルことケンブリッジの俊才チャールズ・ドジソンが優れた論理学者であったことがわかるが—ドジソンが論理学の歴史上重要な人物であることを指摘したのもラッセルである—、古典論理との分水嶺となる)。

すなわち、端的に言って、「我思う」は「私は、思う」 ではない 、、、、 のだ(〈我〉という実在と〈思う〉という実在の位置関係を 図示 、、 している—ラッセルに従うならば主語/述語ではない。高橋に従うならば、それぞれの実在である。それが 論理的な 、、、、 理解なのだ)。

(上図)A,B,andC("and"は、論理結合子 ","で結ばれた—或いは、叙述上、形容上の違いがない等意義な要素を並記して構成した集合— "A,B,C"の最後尾であることの叙述上のマーカーである)。
(下図)A,BandC("and"は接続詞で、","が、 叙述上、形容上の違いがない等意義な要素を並記して構成する集合"A,D"において、実際上、接続詞の働きをし「AすなわちD」であるとき、Dの構成を説明して論理的である)。

こういったシンボルの「図解」はフランス語でより顕著であるが、英語でも読解の鍵となっているようだ。(ルイスキャロルこと)チャールズ・ドジソンとレオン・ワルラスは過小評価されているように感じられ、

Francis Sauveur - Léon Walras - Google ブックス

それでもドジソンの方はラッセルが評価しているし、もともと数学者である彼は論理学の教科書や啓蒙書を書くことに熱心であったし、また実際に、よく研究もされているし、なにより世界でもっとも売れた作家のひとりであるが、レオン・ワルラスの小説の評価はないに等しい。これは非常にもったいない話である。

 

Nicolas Beauzée - Wikipedia

ニコラ・ボゼの代表的な著作『一般文法』

La Grammaire. GÉNÉRALE eft donc là fcience raifonnée des principes immuables & généraux du Lahgage prononcé ou écrit dahs quelque langue que ce foit.

「Grammaire générale」は、したがって、どんな言語であれ話されたり書かれたりする言語の不変で一般的な原則を理性に基づいて体系的に説明した学問です。

Grammaire générale [microforme] : ou, Exposition raisonnée des éléments nécessaires du langage, pour servir de fondement à l'étude de toutes les langues. -- : Beauzée, Nicolas, 1717-1789 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

『百科事典』にも参加して、「句読点」の項でコロンの説明をしている。

Il n’est pas essentiel aux deux points de servir toujours à distinguer des membres principaux de période : il leur arrive quelquefois de se trouver entre les parties subalternes d’un membre principal qui n’est distingué de l’autre que par la virgule ponctuée. Cela a lieu lorsqu’on fait énumération de plusieurs choses indépendantes entre elles, pour les rendre toutes dépendantes d’une autre qui acheve le sens ». Mais, je le demande, qu’importe à l’ensemble de la période l’indépendance intrinseque des parties que l’on y réunit ? S’il y faut faire attention pour bien ponctuer, & s’il faut ponctuer d’après la regle de l’académicien ; il faut donc écrire ainsi la phrase suivante :

 L’officier : le soldat : & le valet se sont enrichis à cette expédition.

二点が常に期間の主要な部分を区別するためには必須ではありません:それらは時折、区別されたコンマだけで他の主要な部分の下位部分の間に存在することがあります。これは、独立しているいくつかの事柄を列挙し、それらをすべて他の事柄に依存させるために発生します。ただし、私は尋ねます、私たちが組み合わせる部分の本質的な独立は、それがすべて他の部分に依存することをどのように影響しますか?正確に句読点を付けるためには気をつける必要があり、また、アカデミシャンのルールに従って句読点を付ける必要があります。したがって、次の文を次のように書く必要があります:

 下士官:兵士:そして使用人はこの遠征で富を得ました。

L’Encyclopédie/1re édition/PONCTUATION - Wikisource

この頃はコロンとセミコロンの区別がなかったのだろうか?


P.97,Encyclopédie méthodique. Grammaire et littérature : dédiée et présentée a Monsieur le Camus de Néville, maître des requêtes, directeur général de la librahive


P.216,Encyclopédie méthodique. Grammaire et littérature : dédiée et présentée a Monsieur le Camus de Néville, maître des requêtes, directeur général de la librachive

(上図)A,B,andC ⇒ A:B:andC
(下図)A,BandC  ⇒ A;BandC

ということだろうか。

—Veuillez comparer les caractéristiques de 'Grammaire générale et raisonnée' et 'Grammaire générale ou Exposition raisonnée des éléments nécessaires du langage', et clarifier les différences. 

『普遍的かつ理性的な文法』と『普遍的または言語の必要な要素の合理的な説明』の特徴を比較し、その違いを明確にしてください。

ポール・ロワイヤルのアントワーヌ・アルノーとクロード・ランスロによって17世紀に編纂された「Port-Royalの一般的かつ合理的な文法」は、しばしば別の類似した作品である「言語の必要な要素の合理的な展示または一般文法」(Beauzée)と混同されます。これらの2つの作品は類似点を共有していますが、重要な違いもあります。

 

前者は「分析的」かつ「論理的」に複雑な文を単純な命題に分解して文の要素間の関係から単語や命題がどのようにして一貫した談話を形成するかを説明したとされ、後者は「科学的」かつ「体系的」に規範的に説明したとされるが、異なる言語に一貫して適用されるルールを詳細に定義し、品詞の分析では、言語特有の慣習ではなく、論理に基づいて基本的なカテゴリを確立しようとたらしい。
句読点くらいしか、よくわからない。『Port-Royalの一般的かつ合理的な文法』については『確率の出現』でも、克服対象として、取り上げられている。


話を戻すと。
人文学上、  の影響が明瞭で、近代小説として画期的であるように感じるし、セミコロンを多用しているので(デュ・マルセは、セミコロンを重視しなかったらしい。)、

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フランス人の散文を味わえて、『フランス小咄』とともに、フランス語の教科書に採用して欲しいくらいである(フランス人の散文例になるのは、一人は、レオン・ワルラスであり、一人は、アレクサンドル・グロタンディークである。まったくそん色がない。おそらく普通のフランス人はこういう文章を「書く」のが好きなのだ)。そういった意味で小室直樹は無知の誹りを免れない。

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そして、デカルトの曲線分類における(幾何的な曲線ではない)  的な曲線(作図法)は、「偉大な」アントニーによって、科学的実験へ発展しただろうか?知らない。

そうなると、古典物理学を生み出したニュートンは、ジョン・ウォリスを受けて超越数を許容し、デカルトの曲線論批判の急先鋒でもあったわけだが、これは現代の「虚数の実測」とも関係してくる。

私はルソーが人文学的デカルトの直系であると睨んでいるが、ルソーについては「古典主義を採らない」点がもう少し強調されてよい。ロマン主義を考えるうえで鍵となるが、「古典的でない」ことを意味しない。むしろキリスト教の古典的な態度である。
プラトンの理解に関して、パスカルと比較されるべきであると思う。単にルソーが「素人はだし」だったに過ぎないと思う。

 要約すると、ルソーは社会構造が導入するとされる弊害を是正し、人間の本質的な善良さに合致する社会契約を作り上げることで、正義と道徳を回復する手段としてより自然な状態への回帰を提唱しています。

 

これでわかった。少なくとも私が考える「ケアの倫理学」とはルソー主義のことで(だから、方法論的ホーリズムは方法論的ロマンチシズムに回収される。)、旧戸籍制度が家父長制との理解が実証的に反駁されたように(名目上の家父長は実質的な権力者である—非家父長の—長男に従うのが一般的であり、実際上は行政の現場でも柔軟に運用されていた事実を支持する研究が蓄積されている。要は、「完全に名目通りの家父長制」ではなく「家父長的な性格を持った制度」だったのである。これは、「旗本革命」を目指した体制論とオーバーラップさせると混乱するが、家庭内においては、漸進的な資本主義化を目指して、まずは目指すべきとされ資本主義社会の前段と目された農本社会—マニュファクチュア社会—での家産形成を促すために、社団化する企図があったと考えられる。つまり、戸長とは社長だったのだが、実際は会長に退いた格好である。)、かつては長男が担った「ナンバー2」の実力を、戦後の母権の確立とアメリカ型のニューファミリー化の中で、母親が担うこととなり、家父長的性格を持つ母子関係が生じることとなったのだが、繰り返し言うように、名目的な「家父長制」ではない。

そこで強調すべきなのが、母子がそれぞれに期待を形成する物語の中で生きる時に、蓄積の違いによって生じる不可避な齟齬による弊害を是正する(法律学上の契約とは異なる)法学上の社会契約を観念することが「ケアの倫理学」だと信じたようだ。

これは善性に根ざしているので倫理学である。

このとき、資本蓄積と階級を具体的に持ち出さない点で、マルクスを否定する。
それは力関係を導き、その中には資本を前提とすることも含まれるが、原則的に「齟齬」なのだ。人間は 社会に埋め込まれる 、、、、、、、、、 ことが前提である。どのような社会であるとを問わない。共産社会乃至共産主義社会であっても可能で、共産社会乃至共産主義にあってなお、母子関係はその家父長的性格により権力関係となりうる。

母子の帰属する社会が異なるからだ。これは単純に、子が発達途上である事実に基づく。だから、子育ての目標が、「対等な関係」なのであった(ただし、対等な関係は、それぞれに異なる期待を形成する物語を生きる、独立した、異なる個人の関係である)。このとき、ケアの関係は、「寄り添う」関係であるが、共感に基づく一体化した関係ではない。違う考えを持つにも関わらず共感する「蒟蒻問答」を通じた(一体化しない)別個の存在である。成長して独立した存在になるのではなく、成長しないにも関わらず独立の存在であり、しかし、巷間言われる「モンスター」でも「デビル」でもなく(そういった児戯と悪意を持ち合わせるにしても)、それでも共感できるとの主張である。「共感すべし」ではなく、本性として備わっている善性によって、自ずと共感できると考えるのがケアの倫理学であると信じたのであった。

構成に実際問題、善性のハードルの上げ下げがあるにしても。それに応じた標準化を施すのである。

 

倫理は個人のものであり、体制は生活に現れることに過ぎないのであった。
ナンバー2(事実上の権力者)を成立させる制度(期待)こそが「家父長制である」との主張である(だから、ルール主義は、その構成手続きによって「家父長制ではない」との主張である。このルール主義は、戦前思想の「悔恨共同体」を生きるのではなく、戦後思想の困難な共同体を生きるためのものである)。