ある夢と数学の埋葬—陰と陽の鍵 (収穫と蒔いた種と) アレクサンドル・グロタンディーク

へー

 

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フランス語を理解するために拙い理解の英訳を補助的に使用しているが、何しろ(私が)拙いもので、英語、フランス語ともに苦労することとなった。

特に、;(セミコロン)を多用することで、長い文脈と短い文脈を並置して、複合的に文を構成するから、相当、文のつながりを意識させられる。

不思議な感じだ。要は、すごく説明的に感じる。

それは語彙を取ってもそうで、これは客観的なのか、主観的なのかを、相当、意識させられる。客観はきちんと客観として理解しなければならない。そういう客観だから、こう評価されるのだ。それは時制と関係してくる。
語彙で言えば、”reconnus” は、=reality であって、この語感をどう出すか。

ノートを取らずになんとなく進めているのだが、これだけ構成がしっかりしていると、ノートを取って前後を参照しないと、何を考えていたかをすぐに忘れてしまう。

5ページでこの調子なのに、300ページは想像もつかない。
背景に『ローマ人への手紙』があるだろうと思うのだが、それをどう表現するかが、大事である。

ジョージ・ブールも読み進めながら並行して読もうと思ったが、とてもじゃないが、難しい。

0CFG 課題見本(PDF)|アンスティチュ・フランセ日本

アンスティチュ・フランセ日本が提供するフランス語通信講座にある「A1超入門~入門」の課題らしいが、これもまだ理解していない。

永遠に終わらない。弱った。
どうもフランス語学習の初学者には定番の教科書がいくつかあるらしい。

つづくかどうかもわからないし、保留。

  1. 語彙を中心に。話の流れ
  2. 文法の理解を進める
  3. 文化や社会背景などその他の理解を進める

を1巡2巡3巡とする中で、理解を深めてゆこうかと思っているので、まずは語彙なのだけれど、あると「便利」なら欲しい。
その中で、できるだけ「よい間違い」をしてゆこうと望んでいるところがあって、つまりは、

谷山はたくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能に恵まれていた。私はそれがうらやましく、真似してみようとしたが無駄だった。そうしてわかったのは、良い間違いを犯すのは非常に難しいということだった。

谷山豊- Wikipedia

もちろん、こういったことは、数学に関してはごく限られた人たちの「特権」なのだけれど、論理は文法に対してそういう優位があるのではないかと感じている。
谷山評に関してはこういう志村だが、実のところ、自分と並べられるほどだとは思っていなかったらしい。数学の業績では志村は相当自負していたし、さすがの谷山も志村と比べると、それは事実だっただろう。

 

アンスティチュ・フランセ日本の講座を受講されていた方のツイッターを拝見していたら、相当の勉強量で、仏検準一級を順当に合格されてなお、こちらの講座も受けられているのだけれど、それを見るとさすがに躊躇する。生活の総てがちゃんとしているというか、生き方が問われるというか、「クラス」ってあると思った。
イクラスゆえにハイセンスといった生活。

自分は、本当、どぶのような生活だな。こんなことをやっている場合だろうか。


『ごんぎつね』はこういう「幾何的」な読解をするかな。
『ごんぎつね』の「作者の気持ちがわからない」という人は、『フランシス・ソヴァ―ル』でも言うだろうか。
ただ、;がないように、フランス語の方が記号が豊富だ(”;””:””,””.”)。その違いかもしれない。その分、文脈の構成が豊かになる。
記号こそが鍵だったかもしれない。

こういった比喩に満ちた文学的な作為は小説家に特有なものであるかというと、実は、違う。

フランス人の表現をかみしめながら、アレクサンドル・グロタンディークによる、友人に宛てた書簡文を味わってみたい。

親愛なるイリュジー                      レゾメットにて
                          1991年3月29・30日

 私に栄誉を与えるための『フェストシュリフト(記念論文集)』の3巻本を受け取ったばかりです。この本の底に流れる精神を把握するために、数時間かけてざっと目を通してみました。いまは、底に流れる精神のみが、私にとって重要です。数学的な内容の方は、しばしば私の頭上を通り過ぎてゆきます。まずはじめに、編集委員会の事務局を担当したものとしてとして払った、あなたの労苦に対してお礼を述べさせていただきたい。たしかに、だれも悲しませることなく、すべての人を喜ばせようという、あなたの望みは、疑うことはできません。しかしながら、いまの状況は、こうしたじつに自然な望みが、実現できないばかりではなく、さらに、魂のとる真実の姿勢とも相い入れる(引用者註:本文ママ)ものではないでしょう。あなたがこうしたことを感ずることが出来なかったことを私はおおいに残念に思います。また少なくとも。故SGA5(あなたの表現を取りましたが)の「廃墟」の編集をするというあなたの担った役割という忘れがたい先例のあとだけに、私に「栄誉をあたえる」ことを目的とした、だが、私の目には、だれに対しても栄誉を与えていない一著作を企画するにあたって、私自身の意見を聞いてみるという慎重さ(あるいは、恥じらい・・・)をあなたが持つことができなかったのをおおいに残念に思います。私の目には、だれに対しても栄誉を与えていないと言ったのは、現在、本人には全く必要ではない花で埋められている、場所ふさぎなこの「死者」に対しても、また、これらのページの中で、いかなる時点でも、真実のことばをひとつも発することなく、この種の機会にあたって、いつもの花火を打ち上げている人たちに対してもということです。それによって、この栄誉が救われていたかもしれない真実のことばが発せられていないのです。リュック[・イリュジー]、この貧しさについて、私は「体面上」のことについて言っているのではなく、深いところに生きている、真の栄誉という意味において言っているのです。かつて、積極的であれ、黙許によるものであれ、ヴェールにつつまれた、ひそやかな軽蔑の中で、不在の師とそれと共に埋葬された人たちの埋葬に参加した人たちのひとりによる、こうした真実のことばもなく、あるいは、それが少なくとも、これらの奇妙な葬儀へのより遠くからの、あるいは比較的近くからの(また、多少とも陰にまわった)受動的な立ち合い人であったし、いまもそうありつづけている人たちのひとりによる真実のことばもないのです。
 もっとも、これらの受動的な立ち合いのひとたちに対しては、私は、この敬意をあらわす行為が心からのものであることを疑ういかなる理由ももっていません。そして、これらの人たちのなかのある人による評価や感謝のことばに心打たれました。そして、しばしの間、いつわりの文脈を忘れさせてくれました。これらすべての人たちに対して、ここで、私は喜んで感謝の意を表したいと思います。真実のことばはありませんが(たしかに、だれも、こうしたことばを発したくなかったようです)、これらの人たちのいく人かと(引用者註:本文ママ)、私は、ときおりは、ある美しさについての人を引きつける、「共通の」知覚の中で、ある種の考え・感情の一致を感じたようにおもいました・・・、(こうした美しさに対しては、私は敏感でありつづけており、それは、いまも、かつてと同じです)。
 あいにく(死者がひとり動きましたので・・・)、祝いの日々の紙吹雪と祝いのことばのために、シャベルと綱を手放さねばならないと信じた、かつての埋葬をおこなった人たちに関しては、あなたに隠しませんが、むしろ、「すべてのひとは親切で、世界は素晴らしい!」といった調子のこの仮装行列に加わるのを控えた、学生たち、かつての友人たちの中の数多くのひとたちに感謝したいと思います。

(省略)

 あなたに宛てるこの手紙は、『フェレストシュリフト(祝いの記念碑文集)』に対する私の応答です。これは、公開の手紙です。この手紙が公表されるようにしていただければ、あなたに感謝します。
 あなたの心づかいに感謝しつつ
       アレクサンドル・グロタンディーク

(追記省略)

PP.625-627,訳者あとがき,『ある夢と数学の埋葬』

※SGA5 Cohomologie l-adique et fonctions L, 1965–1966 (l 進コホモロジーと L 関数), Lecture Notes in Mathematics 589, 1977 https://ja.wikipedia.org/wiki/S%C3%A9minaire_de_G%C3%A9om%C3%A9trie_Alg%C3%A9brique_du_Bois_Marie

この文章などは、『フランシス・ソヴァ―ル』の長い序文と比べて見たくなる。

PRÉFACE
Il y a dix ou douze ans grandissait dans les colléges do l'Université une génération de jeunes gens dont les plus âgés, aujourd'hui, n'ont pas trente ans révolus . C'est dire assez que tout au plus quelques- uns commencent à se faire un nom dans la science ou dans les arts. Et c'est à peine si le plus grand nombre d'entre eux touche à la limite des quinze ou vingt ans d'études laborieuses exigées, à juste titre,par la société, de ceux qui la veulent 'ou guider ou servir.

(省略)

Et prétendre à priori que, dans un temps comme le nôtre ,l'art doit, par nature, rester à tout jamais étranger aux questions sociales , et s'interdire d'aborder , même au point de vue de l'émotion , les problèmes de l'avenir, je le de mande aux hommes de mon âge, intelligents et convaincus, ne serait- ce pas énoncer en un mot sa déchéance et sa mort ? Je veux prourer qu'au contraire il y a là pour l'art une ressource et un avenir ; et c'est pourquoi mon lecteur me pardonnera , je l'espère, de lui avoir évité , par une explica tion sans détours , la peine d'aller deviner au delà de mes allégations des convictions que je n'ai pas à dissimuler.

(省略)

C'est en étudiant ainsi l'humanité , c'est en la suivant d'un caur ému dans sa marche solennelle , qu'on peut enfin distinguer , à l'horizon des siècles à venir, le but où elle tend ,qu'on peut se rendre compte , à certaines époques , des ser vices rendus, pendant le cours des iècles passés , par la science et l'art. C'est en se plaçant à ce point de vue élevé,généreux , qu'on peut indiquer les efforts à tenter , les devoirs à remplir par ces deux nobles soutiens du progrès humanitaire.

(省略)

Plus tard encore , à une autre belle époque de l'histoire de l'art , toujours pour les mêmes causes, et parce que l'humanité progresse, la beauté humaine devient de moins en moins extérieure , de plus en plus intellectuell et morale .

(省略)

Et d'abord , sois un croyant . Puis , sois un honnête homme, indépendant et fier. Car si , selon le mot du sage : Il faut être beau pour juger le beau , n'est-ce pas lorsqu'il s'agit de pénétrer dans le monde moral , d'en faire resplendir les gloires, d'en flétrir les bideurs? Sois tout cela ; et sans doute un jour les générations à venir salueront lon nom comme celui d'un ardent apôtre de l'humanité et comme celui d'un grand artiste.
L. W.
Mars 1858.

Google翻訳

序文
10年か12年前、ある世代の若者が大学のカレッジで育ちましたが、その最年長は今日ではまだ 30歳を超えていません。 科学や芸術の分野で名を馳せ始めているのは、せいぜい数人に過ぎないと言っても過言ではありません。 そして、彼らの多くは、社会を導き、奉仕したいと望む人々に、社会が正当に要求する15年から20年の骨の折れる研究の限界にほとんど触れていません。

(省略)

そして、私たちのような時代に、芸術は本質的に社会問題とは永遠に無関係であり、感情の観点からでさえ、未来の問題に取り組むことを控えなければならないという先験的な主張をするために、私は人々に尋ねます。私の年齢は、知的で確信があり、一言で言えばその衰退とその死を述べているのではないでしょうか? それどころか、ここには芸術の資源と未来があると主張したい。 ですから、私の主張を超えて、私が隠す必要のない確信を推測する手間を、率直な説明によって彼が免れたことを、私の読者が許してくれることを願っています。

(省略)

このように人類を研究することによって、厳粛な行進に心を動かされて人類に従うことによって、来るべき世紀の地平線上で人類が向かう目標を最終的に区別することができ、確実に実現することができます。エポック、過去の時代に科学と芸術によって提供されたサービス。 この崇高で寛大な視点に身を置くことによって、人道的進歩のこの 2 人の高貴な支持者が果たすべき努力と義務を示すことができます。

(省略)

さらにその後、芸術史の別の美しい時代に、常に同じ目的のために、そして人類の進歩のために、人間の美しさはますます外見的ではなくなり、ますます知的で道徳的になります。

(省略)

そして、まずは信者になりましょう。 次に、正直で、独立した、誇り高い人になりましょう。 というのは、賢者の格言によれば、「美しいものを判断するには人は美しくなければならない」とすれば、それは、道徳の世界に侵入すること、その栄光を輝かせること、入札者をブランド化することの問題ではないでしょうか? これがすべてです。 そしていつの日か、未来の世代が彼の名を人類の熱烈な使徒として、また偉大な芸術家として称賛することになるでしょう。
L.W.
1858年3月。

Francis Sauveur | Google ブックス