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44 | 元正天皇 | 日本根子高瑞浄足姫天皇 | 氷高・日高・新家 | 別称 | 陵所 | 草壁皇子 | 元明天皇 |
45 | 勝宝感神聖武皇帝 (聖武天皇) |
天璽国押開豊桜彦天皇 | 首(おびと) | 沙弥勝満 | 佐保山南陵 | 文武天皇 | 藤原宮子 |
46 | 孝謙天皇 | 和風諡号 | 諱 | 別称 | 陵所 | 父親 | 母親 |
47 | 淳仁天皇 | 和風諡号 | 大炊 | 淡路廃帝、大炊王 | 淡路国三原郡 | 舎人親王 | 当麻山背 |
48 | 称徳天皇 | 高野姫天皇 | 阿倍 | 宝字称徳孝謙皇帝 高野天皇 倭根子天皇 |
高野陵 | 聖武天皇 | 光明皇后 |
49 | 光仁天皇 | 天宗高紹天皇 | 白壁 | 別称 | 広岡山陵 → 田原東陵 | 志貴皇子 | 紀橡姫 |
平安時代 | |||||||
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50 | 桓武天皇 | 日本根子皇統弥照天皇 | 山部 | 柏原帝 日本根子皇統弥照尊 天國押撥御宇柏原天皇 |
柏原陵 | 光仁天皇 | 高野新笠 |
51 | 平城天皇 【追号】 |
和風諡号 | 小殿(おて)、後に安殿(あて) | 奈良帝 | 楊梅陵(やまもものみささぎ) | 桓武天皇 | 藤原乙牟漏 |
52 | 嵯峨天皇 【追号】 |
和風諡号 | 神野 | 別称 | 嵯峨山上陵 | 桓武天皇 | 藤原乙牟漏 |
53 | 淳和天皇 【追号】 |
和風諡号 | 大伴 | 別称 | 大原野西嶺上陵 | 桓武天皇 | 藤原旅子 |
54 | 仁明天皇 | 日本根子天璽豊聡慧尊 | 正良 | 深草帝 | 深草陵 | 嵯峨天皇 | 橘嘉智子 |
55 | 文徳天皇 | 和風諡号 | 道康 | 田邑帝、田邑天皇 | 田邑陵 | 仁明天皇 | 藤原順子 |
56 | 清和天皇 | 和風諡号 | 惟仁 | 水尾帝、貞観帝 素真(法名) |
水尾山陵 | 文徳天皇 | 藤原明子 |
57 | 陽成天皇 | 和風諡号 | 貞明 | 持明院殿 | 神楽岡東陵 | 清和天皇 | 藤原高子 |
58 | 光孝天皇 | 和風諡号 | 時康 | 別称 | 小松山陵(後田邑陵) | 仁明天皇 | 藤原沢子 |
59 | 宇多院 (宇多天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 定省 | 寛平法皇、亭子院、朱雀院太上天皇、満徳法主天、日本金剛覚大王、日本金剛蔵王、日本僧本 | 大内山陵 | 光孝天皇 | 班子女王 |
60 | 醍醐天皇 【追号】 |
和風諡号 | 維城、敦仁 | 延喜帝 | 後山科陵 | 宇多天皇 | 藤原胤子 |
61 | 朱雀院 (朱雀天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 寛明 | 別称 | 醍醐陵 | 醍醐天皇 | 藤原穏子 |
62 | 村上天皇 【追号】 |
和風諡号 | 成明 | 天暦帝 | 村上陵 | 醍醐天皇 | 藤原穏子 |
63 | 冷泉院 (冷泉天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 憲平 | 別称 | 桜本陵 | 村上天皇 | 藤原安子 |
64 | 円融院 (円融天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 守平 | 金剛法(法名) 朱雀院上皇 |
後村上陵 | 村上天皇 | 藤原安子 |
65 | 花山院 (花山天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 諱 | 華山院 入覚 |
紙屋川上陵 | 冷泉天皇 | 藤原懐子 |
66 | 一条院 (一条天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 懐仁 | 永延帝 精進覚・妙覚(法名) |
円融寺北陵 | 円融天皇 | 藤原詮子 |
67 | 三条院 (三条天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 居貞 | 別称 | 北山陵 | 冷泉天皇 | 藤原超子 |
68 | 後一条院 (後一条天皇) 【追号】 |
和風諡号 | 敦成 | 別称 | 菩提樹院陵 | 一条天皇 | 藤原彰子 |
以上で、清少納言、紫式部が存命中に在位した全ての天皇の名をまとめてみた。
清少納言の『枕草子』の(随筆である以上の)「教書」的性格を明らかにすることを目的に、その背景を整理しておくことを当面の目標とした。
「教書」であるならばイデオロギーに支えられているはずで、「勅撰」である以上、その痕跡がどこかに表れているはずだと睨んだからだ(この場合、そのイデオロギーが個人的思想でないことを期待している)。
こうやって見ると、天武朝※へのルネサンス(復興)的性格がうかがい知れたのではないだろうか。
一方で、紫式部の『源氏物語』には「記紀」的事業(の継続)の側面が (雅的な理解※の自然的調和から、人倫的結合へ。)、『枕草子』を想像させる箱庭的宮廷劇を内部に配置して(すなわち、『枕草子』の世界観を取り込んで)俯瞰することで、より普遍性を与えようとしていたことがうかがえる。
奈良時代からすでにあった神仏混合から平安中期に成立する本地垂迹に至る変遷の道すがら、理想とする社会像が、統治技術に支えられているために、当時の宮廷勢力と密接な関係にあったことが想像されるのであった。
※表現される心情以上に、漢字文化を受容する当時の教養(だから、紫式部の批判対象となった。)
「武士」も「仏」も道路を通って来た。
「天皇制」というよりもはや、それと同じくらいの歴史を持つ中臣氏(藤原氏)とその他の争いのように見えてきた。
ただ、武士の登場によって、「名」ばかり「〇〇氏」も一般的になり(それ以前から氏姓が混乱し整理が目論まれていたが。)、「名」の持つ評判機能への信頼が見られるのであった。