agora-web.jp

都合の良い「国民」なんて「万能の存在」は存在しない。

馬鹿馬鹿しい。

そんなもんは、議員内閣制における選挙を通じて国民の負託を受けた与党の長であり、国務を総裁する、内閣総理大臣の判断に委ねればよく、「原則として国葬は執り行わない※」が「混乱が生じるなどの事情に鑑みて」判断すればよい。
※じゃないと、「10年に1人の大物次官」が2年に1度でる財務省のようなヒトを小ばかにできると思い込む醜態をさらした話になって、みっともないことこの上ない。なにしろ足し算ができてないから。

そのなもの、その都度判断するべきだ。
法律にしても、1条しかないわ。後は、規則だけ。適正会計に関する処理だけの話。

「する」か「しないか」の判断に国民の意見など必要ない。
そんなものは主権の範疇にない。行政上の都合だけであって
それは「監視」のレベルだ

「国民」などという架空の存在の上に胡坐をかいて、図に乗り過ぎである。

 

なんか機能の、国民皆泳の話みたいだな。軍艦が沈んで云々。
戦前はともかく(それでも焼夷弾の防火活動のようなもので、科学的効果が不明だが、政治的効果、規範的効果は抜群だ。それが戦前の主体主義である。)、戦後は、そうでも言わな仕方ないから(「戦後」も科学を重んじる合理的個人という名の主体主義が引き続いて残った。それは「科学的語彙」が踊る主体主義に過ぎないことは、腰洗い槽の普及と廃止でうかがえる。驚くほど効果が乏しかったのだ。これは今の、左翼の好む政策全般に言える。すなわち、エコ、コロナなどである。科学ではなく、実際のところ、〈私〉が主役である。そして単純な行動主義を採る限りに於いて、〈私〉は対等である。対等な〈私〉が偉そうに上から物申すという矛盾はどうでもよいのは、そこにあるロジックが、〈私〉が「負けていない」ことが企図されているからである

その程度の「国民様」の云うことなど、微塵も聞く必要がない。意見を徴するなどという〈私〉が輝く「檜舞台」すら与える必要がない)、そう言っているだけで。

そんなもんは、そもそも元手のない中、煽ることで「火のないところに煙を立てる」反社のやり方そのものなんだよ