『源氏物語』に忍び込む権門体制

また、例の「忘れたころ」作戦が発動している。

これだから、「ころびマルクス」は。
ウソも百篇付けばを地で行く。

markovproperty.hatenadiary.com

この人の場合、無知が半分と煽りが半分で、うまく無知を誤魔化してんだよな。
どこでそんなことばっかり覚えてきちゃったかね。

これに対抗心を燃やしたのだろうか。

少なくともこうやって日常語で「保守」を定義した功績は褒められてよいのではないだろうか。

この人は、逆に、何を勉強してきたのだろう?と不思議な気持ちになるが、文化人類学ならわからないでもないけれどね。フランス人の指摘の通り、「社会民主主義」が日本人の保守的な傾向に近いと思う。これはイスラエルキブツを思い出させる、日本の仏教の伝統—というよりも、日本の社会を仏教で説明したことに近いと思う。

そもそも日本の仏教は中国の習合思想の洗礼を受けた仏教であるところ、その習合の要素と成った中国の土着思想も入ってきているから、「習合思想」というと、日本におけるその後のことで、番号でもふらないと、まことにややこしいことになっている。
中世の日本の政治思想では、葦原(高天原)系に集約する思想と仏教系に集約する思想に分かれると思うが、今ほど言った通りなので、鍵は、「集約」になると思う。葦原(高天原)系とは、中国の習合思想では黄老や老荘といった中国の土着思想で、ここから陰陽五行説から中華思想まで含む。仏教はもちろんインド発祥の哲学だが、主に、中国で研究された宗派であるから、隋の時代の騎馬民族寄の輸入思想から浄土教リバイバル)以降も含む。意外にこの浄土教リバイバル)の日本での評価が安定しない(私は鎌倉新仏教後の日本式複式簿記のアイデアの素だと睨んでいて、興味がある。近江商人なのだが、浄土真宗から直接導くのは無理がありそうなのだ。まただからこそ、イタリア式、中国式とは独立して、日本式の複式簿記の発生も認められるではないかと思う。習合的なのだ。「心の計算」は実はイタリア式でも前史で認められるとおり鍵となっているようだ)。江戸時代を作ったというのに、徳川家康が戦前ほど人気がない。騎馬民族のほうは、思想的評価がまったくない。韓国にも見られるだろうか、日本の小中華の思想は意外に根深いのであった。

 

なにしろ私は陳舜臣さんの大ファンだったので、中国の建国伝説も愛読していたのだ。司馬遼太郎とは大阪外国語学校の同窓であるらしい。でも大分文体が違う。司馬は講談だなぁ。司馬の功績は吉川英治の講談調を脱したことにあるが、講談であることに変わりはない。台湾の物語の話型ってどんなものなのか知らないが、そこらへんどうなのだろう?

古代世界では、匈奴が一番好きな国のひとつだったりする。渤海もそのひとつである。


そう考えると、大正新仏教と世界的なオカルトブーム(その実、19世紀科学革命のバックラッシュとしての神学的幾何世界への逆転現象)後の生命主義とその分派である太陽主義と日本主義、或るいはその習合である生活主義に彩られる昭和を理解しやすい。

 

と思っていたら、渤海が来ましたね。

六国史 - Wikipedia

これが「正史」としたら、その対義語に「非史」や「俗史」があるはずで、要は、『古事記』以降の歴史読みものである。

dl.ndl.go.jp

あれだけ真名仮名に拘った人が、文章の形式に於いて、何ら拘りがなかったと決めつけるのには違和感を覚える。

しかし、やがて中宮彰子の信任を得て、いわば家庭教師役として、ひそかに白楽天の『白氏文集』の「楽府」の進講をしました。また同僚から「日本紀の御局」とあだ名され、困惑することもありました。宮仕えの間に長編ロマンの『源氏物語』を完成し、また宮廷生活の記録である『紫式部日記』を残します(図1‐2)。

河添房江(2023-10-24).紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.133-137).株式会社KADOKAWA.Kindle版.

つまり、『源氏物語』も『紫式部日記』も(当たり前であるが)「正史」ではないのだ。それ以前に、『紫式部集』と『百人一首』の関係がある。
紫式部の父親も、『日本三大実録』を編んだ人も、『百人一首』を選者も

藤原為時 - Wikipedia

藤原時平 - Wikipedia

藤原定家 - Wikipedia

同じ北家ではないか。いきなり「長編ロマン」はないのではないか。

藤原北家 - Wikipedia

普通に考えて、急遽勢力が伸長した北家の拍付けが必要だったと思うが、それは後知恵だろう。

中臣鎌足の二男藤原不比等壬申の乱後天武朝に中臣氏が一掃され、父親の藤原氏への改姓を継承して下級官吏から出直したらしい。その後は、大臣家蘇我氏との姻戚で名を上げてゆく。
天智天皇落胤説が『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』で採り上げられ、

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。

藤原不比等 - Wikipedia

 

元祖「光源氏」のような人物である。『大宝律令』と『日本書紀』と興福寺をつくった人である。
藤原不比等の四兄弟の二男房前が北家を創設し

藤原房前 - Wikipedia

房前の三男真盾(北家傍流)

藤原真楯 - Wikipedia

真盾の三男内麻呂(北家嫡流

藤原内麻呂 - Wikipedia

内麻呂の二男冬嗣(北家嫡流)。いつの間にか、文人不比等)から武人(内麻呂)に代わり、武人(内麻呂)から文人(冬嗣)に代わっている。

嵯峨天皇の命令を受けて『弘仁格式』『日本後紀』『内裏式』等の編纂に従事した。また、『文華秀麗集』を撰進し、その『文華秀麗集』のほか『凌雲集』『経国集』に漢詩作品が採録されるなど、冬嗣は中国古典にも精通していたらしく、その面でも中国文化に傾倒した嵯峨天皇の期待に十分応えたものと考えられる[8]

藤原冬嗣 - Wikipedia

嫡流であるところの冬嗣流から分流して良門流を興し、冬嗣の六男

藤原良門 - Wikipedia

良門の長男利基(良門流)

藤原利基 - Wikipedia

利基の六男兼輔(良門流)

藤原兼輔 - Wikipedia

兼輔の長男雅正(良門流)

藤原雅正 - Wikipedia

雅正の三男(良門流)が藤原の為時である。為時は越後守になったらしい。紫式部も越後に2年ほど滞在したが、寒すぎて、都へ帰ったらしい。いや京都も盆地で寒いだろ。雪の方だったろうか。それとも食べ物かな。この頃は、(京を経由した)九頭竜川の(唐や渤海との)貿易が盛んでなくて、毛皮が手に入らなかったか。知らない。

除目のやり直しにより為時が淡路守から越前守に栄転したことは当時の人々の注目を集めたことが想定される[5]

藤原為時 - Wikipedia

栄転ではあった。房前の頃に、越後の蝦夷が征討されている。

枕草子は『春は曙』で決まり(高天原系教書的性格)、源氏物語は『いずれの御時にか』で決まる(正史ではない俗史で、不比等道長を重ね合わせる。仏教系実証的)。
意外に、興福寺不比等)と法華経道長)が鍵だな。意外に権門体制が軽視されている。黒田説とはこうである。

すなわち、権門勢家とは、ただ私的な実力によってのみ権門勢家たりうるのではなく、顕著な文官の家柄であること、国家を鎮護する寺院であること、武力を統率して国家を守護すること、などのように、それぞれの国家的見地からの職能的な役割を帯びているということになる。それは、国家秩序における支配階層内部での分業形態ともいうべきもので、権門の私的性格は、これによって公的位置を与えられ、相互補完的な関係において国家を構成していた、という。そして、こうした権門体制、すなわち「中世の成立」を、鎌倉期ではなく、それより前、十一世紀後半から十二世紀後半の院政期に措定した。

P110(kindle位置1506/3578),権門とは何を指すのか,第四章朝廷と幕府—二大勢力の関係性をめぐる激しい学説論争,Ⅱ部「人」「階層」から見る〈いくつもの日本史〉,分裂と統合で読む日本中世史

こういった視点が『源氏物語』語りから欠落してはいないだろうか?紫式部はまさに権門体制成立期の人なのである。

とは言え、『源氏物語』にロマンを見出すのが、なぜか定番となっているが、いや、普通に日常生活の中で書いたでしょうよ(だから、「ロマンス語」の含意があるなら自然であるが、そうではなく、近代的枠組みなら、それは端的に誤りである)。

言語学的にはロマンス語は、俗ラテン語を祖とする諸言語という以上の意味合いは持たず、その分類は政治的に行われてきた。

ロマンス諸語 - Wikipedia

大東亜戦争」と言いたがったり(行政文書ならただの意思表示に過ぎないから、歴史を拘束するものではない。それは「兵は優秀」と「兵站無視」の文脈に通じる、政治的決定なのであるが—つまり、「兵第一主義」による「民主的理解」であって、本当は兵站を無視したことはない。なぜなら、軍=行軍で、兵站=行軍だからである。このとき、戦争=戦闘ではないし、戦争=兵でもない。意志に基づく歴史観に立つのは自由であるが、歴史学が科学であると信ずるなら違和感を覚えるはずだ。)、『源氏物語』は日本最初の(ロマンスを描いた)小説であると言いたがったり、戦前の影響は意外に根深いのだった。


—黒貂皮衣はロシアン・セーブルですか

黒貂皮(くろだびひ)は、一般的には「セーブル」として知られています。セーブルは、ユーラシア地域に生息する動物、特にシベリアの貂(マーテン)の毛皮を指す一般的な用語です。ロシアン・セーブル(Russian Sable)という用語は、高品質で希少なセーブルの毛皮を指すことがあります。ロシアがセーブルの主要な産地であるため、この言葉が一般的に使われます。ロシアン・セーブルは、非常に高級で高価な毛皮として知られており、贅沢な衣類やアクセサリーに使用されることがあります。

www.the-sankyo.com

 

これはウケるネタなのか。なんども繰り返し本になっている。
渤海趣味を満たしてくれるのでありがたいが、

法文的にはこちらに興味がある。

10世紀後半、京で生まれた一人の女の子。まひろと名付けられる。父・藤原為時ふじわらのためときは漢学や和歌に秀でた文人の家系だが、下級貴族である一家の暮らしぶりは豊かではなかった。 まひろの文学の素質は幼いころから際立ったものがあり、弟への講義を横で聞くだけで、漢学も和歌も覚えてしまうほどだった。学問はまひろにとって、心の中の豊かな世界観の礎となる。 少女のまひろが出会った運命のひと。それがのちの最高権力者となる藤原道長ふじわらのみちながである。まひろと道長はやがてお互いに惹ひかれていく。しかし両家の家格の違いと、まひろの母の死にまつわる秘密が、二人の関係に影を落とす。 その後、父の受領ずりょうとしての赴任先・越前に同行したまひろ。一方で、道長はライバルを蹴落とし、権力の階段を急速に上り始めていた。まひろは思いを断ち切って、京に戻り藤原宣孝ふじわらののぶたかとの結婚を決める。宣孝とは父ほども年が離れており、娘を授かったものの、わずか一年で夫が急逝。まひろはシングルマザーとなる。 道長は、天皇に娘を入内じゅだいさせ、いずれは天皇の祖父=外戚がいせきとなることをもくろんでいた。天皇道長たち貴族、そして后きさきや姫たちの複雑な人間関係を聞き知ったまひろ。子育てのかたわら、一編の物語を書きはじめる。主人公は皇子でありながら、臣下となった光る君。その呼び名のとおり光り輝くように美しい男性だ。『源氏物語』の評判はまたたく間に広がり、まひろは、道長から、娘に后としての教養を授ける女房として宮中に上がるよう、強く誘われる。 一人娘の養育のために、宮中に上がることを決意するまひろ。宮仕えのかたわらで、道長のバックアップを得て、乞われるままに源氏物語を書き進む。書き上げる端から周囲が奪い合うほどの人気ぶりで、女性たちはもちろん、天皇までもが源氏物語に魅せられる。物語の登場人物「紫の上」にちなんで、まひろに「紫」の呼び名が冠されるほどだった。

2024年 大河ドラマ「光る君へ」紫式部 生涯のソウルメイト・藤原道長 役は柄本 佑! 大河ドラマ 光る君へ |NHK_PR|NHKオンライン

それ「文学」に限定すべきなの?