私は保守党の人たちのことは知りませんが、彼らにも、何かしら一貫した考えがあって「解釈」しているようです。それが或る程度の知識を踏まえた人も合流している理由でしょう。旗幟は鮮明ですが、その「織り方」が鮮明ではありません。
彼らの(今件に付随する)具体的主張の中心にあるのは、どうも「正当防衛論」のようです。つまり、実のところ、「国際連合論」なのです(したがって、国際法から帰着する批判には動じません—理論的問題ではなく、実践的問題、裁判規範の解釈ではなく、執行能力の問題だからです。それが「不全」であるとき、「自力執行」がどの程度事実上許容されるのか、という、自己実現を企図し得る社会構成主義に近づくからです)。
したがって、いくつかの前提を踏まえなければなりません。
これが彼らの「近代主義」となっていることが今件で重要で、このとき、その最大の特徴として、「正当防衛は制限されない」(分析されずに、リスクは原因となる主体が一元的に担う※)解釈を採るようです(これが自力執行を担保します)。
※日本国刑法の正当防衛は「過剰防衛」の違法性を認めています。
そこで私は貴方に問うのです。
—Would it be wiser to think that they are using modern concepts to justify the legitimacy of diverse conflict methods that don't align with their modern ideals?
彼らが、自身の現代的な理念に合わない多様な紛争手法の正当性を主張するために、現代的な概念を用いていると考える方が賢明でしょうか。
「近代」を、「事実である」というケルゼンの言葉から考えるからです。
翻ってケルゼンは、国家の神聖化につながる理論は主権国家間に自然に生じた国際法に対する主権の優位性を正当化してしまう、と書いている。ケルゼンにとって、主権とは理論的な概念ではなかった。彼はこう記している。「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」と。
近代的な国際法の黎明期乃至確立期における問題意識です。
ならばなぜ、主権国家が擁護されるのか。
刑法学の分野においては、M・E・マイヤーら多くの学者によって取り入れられ、当時の自然主義的・法実証主義的な刑法理論を批判して、目的論的・価値関係思考的な理論を樹立したが、後に、ハンス・ヴェルツェルの目的的行為論によって批判されるようになり、多くの論争を引き起こした。
「立法者の意志」(法実証主義)と「行為者の意志」(目的的行為論)の齟齬です。価値を体現して行為する主体の行為の解釈を巡って、立法者と行為者の拠るべきスタンダードが争われているのです。
私には難しいので、保守党の人たちの主張がどれほど正しいのかわかりませんが、貴方にもわからないということはわかります。
これって、なんか、
markovproperty.hatenadiary.com
田野さんの話に近いね。
田野さんが言ったのはあくまで「歴史学の方法論に照らして」評価したことであったんだけれど(門外漢の私が言うのはおこがましいですが、おそらくそれは正当であって)、ただし、彼に「質問を繰り返す人たち」は「歴史学に拘っていない」から、話がかみ合わないんだね。
要は、アクティベイティブな人たち(アクティベイターに活性化されてアクティブな人たち)であって、政策をアートから捉えたときに、その行為主体を構成している主観的要素を重視して社会の構成的意味から(書き換えられた社会的意味は何かを)理解したがっている人たちとも言えると思います(「書き換えられた社会的意味」に着目する限り、それがワイマール憲法であるはずがない)。要は、主体主義で、主体間の相互関係を見ています(だから、「大東亜戦争」という文責≒当時の権威的な主体による意思表示を重視します。継時的理解に近い—したがって、分析的理解に遠い—かも知れません。要は、 諄諄 です)。
興味深いのは、今件に関する限りは、田野さんのときと違って、分析者(専門家)と素朴な観察者(素人)が表見上「同意見」であることです(しかし、本当に同意見かは不明です。経緯が異なりますので)。