ミツカンの婿さんは種馬扱いされてしまったわけだが、ミツカン創業家は婿さんのどの辺を評価して娘に世継ぎを産ませたのか大変興味深い。この厳しい創業家が見極めたわけでかなり有能な人ではなかろうか。 https://t.co/uAsY0BIBHP
— May_Roma めいろま 谷本真由美 (@May_Roma) December 9, 2023
これは、要は(日本国憲法は関係ないとは)、
- 祭祀相続
- 資産相続
- 親権(財産管理権と身上監護権から成って、監護権は親権と分かれることがある)
が問題と成っているように感じた。
だから、銀行が目立つけれどさ、酢を扱っているから、愛知だと
酒造業者だったんだけれど、
銀行もつくるじゃにゃーかね。
廻船で財を成したのかね。だから、酒(粕酢)から米(米酢)に移れたとか?
明治に銀行が乱立するけれど、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/30/5/30_5_406/_pdf/-char/ja
The Locational Process of Banks in the Kanto District, Japan, 1868-1907
明治期・関東地方における銀行の立地過程 | CiNii Research
そうか、農家に貸付でもしていたかね。
一橋人脈と大阪経済界でつくった学校だったんだねぇ。
関西はこういうのがあるからなかなか学歴だけでは見えてこない。
東京には成蹊大学があるか。甲南と成蹊って似たようなステータスだろうか。
加賀には、
この人が有名なんだけれど、
(P.90(162-163).事業と人物, 近藤乙吉 , 大正6 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
久徴館人脈というのがあって、鈴木大拙もこの恩恵に与ったということである。
鈴木大拙が出会った人々( 1 )北条時敬 – ZENzine / 禅人
加賀藩士の流れをくむ炭屋の初代が京都に店を出したらしい。それが戦国も終わったということで、刀鍛冶に炭を下すのをやめて、なぜか、自分で金物屋を始めた。
これが転機となったと言われるが、そもそも不思議な話で、刀鍛冶が食い詰めたので、炭で蓄財した資本を投下して、製鉄施設を買ったじゃないのかと思わずにいられない。
なにしろ、もともと刀を作っていたので、切れ味抜群のはさみであった、というのは、今思いついただけだが、とにかくも、江戸時代に金物屋として大繁盛したらしい。屋号が「炭屋」である。
このクラスの金持ちになると、まさに富豪で、1,000万円の所得ではなく、1,000坪の不動産で計算した方が早いんじゃないかということで、日本野鳥の会の創立者中西悟堂も加賀藩士だったのであるが、早川千吉郎長男忠吉を訪ねて渋谷区初台にある2,000坪の豪邸まで行ったときに、金の使いように驚いたということである。
ところが、一時はこの人が中心と成った久徴館人脈も、それを「人脈」と呼んでよいのか実は疑われている。久徴館は殿様をトップにしていたようだが、何しろ金持ちは群れないし、要はハイステータス出身でなければ、仲間に入られなかったらしい。
久徴館は帝大をはじめとしたハイステータスの入り口だったのである。
確かに、七尾から上京した藤澤清造は、何か伝手でもあったのか、同じように尋常高等小学校を卒業後に就職した中山介山を頼った。
近代日本の「流動エリート」と郷友会ネットワーク―加越能郷友会の事例
香川人脈と言えば、セレブなのが、
この人で、「ナカノ」違いである(中埜、中野)。こちらは大病院を経営する地元で有名な名家で、ジョン・レノンがお忍びで日本旅行したときには立ち寄ったらしい。
徳島なのか香川なのかよくわからない。