あらまたドイツ人に騙されている?

シュレディンガーの猫

だから、そうやって、ポーンと哲学を持ってきたり、ポーンと物理学を持ってくるから混乱するだけで。
ニュートンのやったことは明らかに物理学の数学化(これはイタリアのガリレオガリレイが始めた革命で、ニュートンはその完成者とも言われるが、数学に関して言えば、ニュートンのアイデアは19世紀の、オイラーを嚆矢として、      らが完成した。)

ここで着目すべきなのは、まずそれが「数学に関すること」であり、次に「数学に歴史があること」なんだ。
カントはたまたま、、、、それをつまみ食いしただけなの。
ポーンと飛躍するならむしろ、現代数学、例えば、この間のペレルマンの業績に触れた方が良いくらいだよ。あれを証明するのに多くの数学者のどれだけの努力があり、貢献があったか。大事なのは少しずつ進んだということと、まさに、数学の持つ可能性を示していること。
その可能性が従来の人間観を超えていることをカントらは示したに過ぎないんだ。
ここでデカルトニュートンの関係を考えてみると、デカルトはもちろん著名な数学者であるから基本的な枠組みを最初はニュートンも共有していた。ところが最後はデカルトを否定する。

 なぜか

簡単で、ニュートンは計算の天才だったからだ。これは当代随一で、数々の逸話を誇る。彼は数学の持つ一大特徴である、形式依存性に習熟していたんだ。余計なことを考えない天才だったんだ。
そこで否定されたのは、経緯的に言えば、デカルトエーテルだったけれど、要は(想像上とはいえ)「目に見える対象」がなければ操作ができないという人間の認識能力だ。ニュートンにはその代わりに計算能力があったに過ぎない。すなわち、人間の所与の認識能力に頼らずとも「正しい答えを導ける」ので、ニュートンはそれを「神の御業」と考えたし、カントはいかにもドイツ人らしく「そのもの」と呼んだに過ぎない。よくわかっていないことをもっともらしく説明するのはドイツ人の癖だよ(しかも当時の学問的方法の域を出ていなくて、もっともらしく、経験を述べているに過ぎないーこれに日本人は騙されやすい。新しい「朱子学」であって、或る意味「虚妄の説」だ)。要は抽象的でありかつ同一操作に従えば普遍的に(つまりヒトを選ばずに)利益を共有できるに過ぎない。すなわち「目に見える」ことから「操作できること」に変わったに過ぎない。

じゃあ、シュレディンガーの猫とは何か?電子スピン?
こう考えるとき、まだ「具象物を用意しなければ、想像すらできない」ことに気づかなければならないんだ。ここで言っているのは「猫」?「電子」?
いや、違う、「スピン」なんだよ。
「スピン」が「具象(物)」なんだ(本当はただの比喩)。本当はただの数学的特徴に過ぎない。つまり抽象的であり人間の認識能力を超えている。
ーじゃなかったかな?本当に回転しているんだっけ?間違っていたらごめんね
簡単に言うと、虚数なんて目に見えないし、手に触れることはできないが、形式的操作に従えば間違いなく、、、、、扱える。

ここで少しだけ考え方に余裕を持たせるんだ(どのみち人間の認識能力を超えているから)。ニュートンが証明したことをカッコに入れるとこうなる。

 F(目に見えること、目に見えないこと)

次に、シュレディンガーの猫を同様に考える。

 F(手に触れられること、手に触れられないこと)

どう?大して違いないでしょ。これを統一的に考える手段が数学なだけなんだ。
数学がそもそも人間の或る、、認識能力を超えているだけなんだ。

さて、最後の問題は、この「或る」が何か、ということだ。
それだけのことなんだよ。

 

抽象代数の歴史

抽象代数の歴史

  • 作者:I.クライナー
  • 発売日: 2011/04/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

そんなことはコロナウィルスの実態とまったく関係がない。
まぁ、ウィルスなんで、電子顕微鏡じゃないと観測できませんが(電子顕微鏡は、光学顕微鏡と違って、計算上求められる像を結ぶ?らしいので、「目に見える」限界を確かに超えて数学的な存在ですが、「作用」とか「反作用」とか「慣性」のような力ではなく、間違いなく実際の存在=具象物ですよ。ここで言えるとしたら、抽象は具象を超えて、その内容を含む、ということであって、或る意味で、アンセルムスの「神の大きさ」問題の系譜です。神はいつしか比喩に過ぎなくなったと考える立場も可能です。でもそんなこと科学者に関係がない。もちろん、科学者も人間であり、したがって社会的動物であり、また科学ですら社会行為に過ぎませんから、関心を持つのは勝手ですが)。


こんなことはね、『武士道』がわかるかどうかなんだよ。
つまり、(『騎士道』になぞらえた)サロンのパロールに過ぎないということがね。
そうすると、ドイツ人やイギリス人に騙されなくなる(もちろん、マルクスを含むよ)。

いや、これって、意外に「世界を知る」には大事なんだよ。 

markovproperty.hatenadiary.com

 👆だって、結局は、そういうことなんだから。
「あはれ」なんて感じていると、わからなくなるんだよ。
だって、そうでしょ。「感じる」のは脳みそとしても「考える」のとは場所が違うでしょ。もちろん僕ら日本人も考えているつもりなんだけれど、どうも質か種類が違うらしいよねってことに気付けるかどうかじゃないかなぁ?と思う。つまり、概念操作に関して。