wating

 

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to be or not to be

勘違いする第二の理由が先に挙げたそれを「死生観」でとらえてしまうこと。つまり、①直後の文、②死生観で捉えることが勘違いする理由らしい。

と書いたんだけれど、さっき、みっちゃんの動画を観ていたら。


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この説明って、宗宮喜代子先生も同じこと言っていたような気がする(ブログを閉鎖したので確かめられなかった)。

そこで思い出したのが芥川龍之介

「下人が雨やみを待っていた。」という表現を、下人の状況に即してより正確に言い表している部分を本文から抜き出しなさい。
という問題があり、
私は、
雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた
と書いたのですが、×でした。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11163778081

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html

 あぁ、これ俺が中学生の時にも、問題でたなぁと思って懐かしくなっちゃって。
これが(実は)「現在進行形」の問題なんだよね。まさに wating なんだね。
したがって、セイケの言う「理論」を当て嵌めると、わかる。つまり、「始点」と「終点」というか、芥川の場合むしろ逆説的に、「始まる前」と「終わった後」を考えて、そのいずれでもない「とき」が wating なんだ。

 何を或いはどうしていますか?

だと、途方にくれている、のだけれど、

 どうしてそれが終わらないのですか

と問うと、おそらくそれが答えだ。下人もまさに、to be or not to beで悩んでいたんだ。ハムレットと対照的な答えだけれど。
芥川はこのどっちつかずの終わらないさまで wating を言い表していたんだね。


さすが秀才芥川。当時の最難関、東京帝国大学文科大学英文学科卒。
問題はね。
これを「国語読解」では教えにくいことなんだよ。

噺を続けると。
「生きるべきか」悩んでいたのは下人であった。
もっと言えば、「善き死」に悩んでいたのはハムレットだが、「悪しき生」に悩んでいたのが下人だった。
オフィーリアは歌い、水を吸った衣装の重みで泥の中に沈む。
老婆は裸の体を起こし、呻き声を上げる。
主要な登場人物がみな死んだ『ハムレット』とみな生き残った『羅生門』のコントラストが在る。下人の行方を誰も知らないどころではない。本当は老婆の行く末だって誰も知らない。ハムレットは死ぬために経緯を一生懸命説明するのだ。ハムレットは、"fly to others that we know not of? "な死を恐れた。
蛇を売っていた無名の女の毛を抜いた老婆と悪魔の仮面をつけるよう利用されたオフィーリアを許さないハムレットのねじれもある。そういえば、『羅生門』では全員が無名だ。検非違使と女子修道院コントラストもある。

ハムレットと下人の年齢もよく気にされるらしい。下人が10代で衆目の一致するところだが、(鮮やかに赤い)面皰が決め手らしい。老婆の(赤黒い)檜皮色の着物と比べたいところだ。https://land.toss-online.com/lesson/aayw3q6wzhh25i4i
意外なところではくさめ(くしゃみ)かもしれない。『鼻』でくさめをするのは分別のつかない中童子だ。「くさめ」とはもともとまじないで、それを恐れない稚気がある。
これも実は面皰との比較が在って、夏目漱石天然痘に罹患したのであるが、その場合は疱瘡と言って、一応面皰とは区別されるのか。天然痘も子供の罹るものと理解されていたらしく、通過儀礼のひとつとして地方によっては赤飯を炊くなど、「赤」の持つ呪術力にきたいするところもあったらしい。下人は物語の最初面皰を気にしているが、最後は面皰から手を放す。

芥川はシェークスピアを反転させたか。
それは知らない。古い物語にはどこかしら共通点があるからだ。芥川のこれにも元の物語がある。ただ、それは、趣が異なる。