でもこれってさ、人生の1/3を「娘」人生の1/3を「嫁」人生の1/3「姑」で過ごす、家人のことじゃないかね。

ソトから隠されたウチの話であって。
男の人生の「息子」「婿」「舅」でないのは、話がややこしいからってのもないかね。

二男、三男の人生もあるような、ないようなだからね。
単に、「男」で纏めにくいってあるかもしれない。『羅生門』も「下人」と「老婆」なんだよなぁ。これが成長譚じゃない(教養化されない)ところが、芥川の天才性であって。この頃の芥川龍之介は常人離れしているなぁ。
すなわち、異なる、、、存在規定が交錯するアマルガム化を経ることが凄いのだけれど(変容して最後は離脱する。これも一種の「自由論何が自由を与えるのか)」)、これが志賀直哉に受け継がれると、ファクターを増やすまではナイスアイデアで、その分複雑性を排除しなければ収まらないから、ポンチ絵になったかな。
感動でシャッとダウンしてしまった。
あれは「 デウス・エクス・マキナ」だよ、志賀から「ギリシャ」を抜くことはできない(芥川には、ギリシャ的な側面とローマ的な側面を感じるが、フランスかぶれの志賀には、フランスなのにローマ的側面があまり感じられない)。白眉なんて言える代物じゃない。

まぁ、もう単純な見方は通じないかもしれないね。
「男女差別問題」は必ず問題化から排除する者を生むんだよなぁ。。。。


そうか、芥川は、ウィリアム・モリスを研究したのか(卒論)。バラッドの影響があるらしい。

バラッド - Wikipedia

英国バラッド詩アーカイブ ( The British Literary Ballads Archive ) - ウィリアム・モリス (William Morris, 1834-96)