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石屋貴浩
★★★★☆竹内先生、もうちょっと分かりやすい言葉で書いてください (;'Д`)
2014年12月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「論壇的公共圏に戻って本書の構成を記しておきたい。論壇的公共圏の中心メディアや カノン的言説流儀ができあがると、界の常として対抗言説と想定読者や編集方針などを 含めた対抗スタイルが台頭する。本書の構成は、このような視点から三部に分けて編集されている。」

・・・上記の一文は、「序論」の一部です。これの意味を一度読んだだけで理解できた人ならば本書は 大変面白い本になるでしょう。そして自分のように読んだ瞬間に「?」と思った人は、

1・面白い(~くなった)とこだけ読む 2・理解できるように努める 3・燃え尽きる 4・本棚に飾る 5・1に戻る

よくわからないが、基本的に、ユルゲン・ハーバーマスの親密圏/公共圏の議論を踏まえているようで、しかし、根底には、カントのカノン(基準)/オルガノン(道具)があると思った。

カノン - Wikipediaオルガノン - Wikipedia

ハーバーマスは、『公共性の構造転換』において、啓蒙期の近代社会に現れた高校の議論のもつ意義を高く評価し、それを「市民的公共性」として概念化した。市民的公共性は、国家の公共性に対して対抗的に形成される市民(私人)たちの公共性であり、それは、国家活動を批判的に監査する機能と、立法の源泉たる公論によって公権力に正統性を与える機能をもつ。当初公共の議論は文芸・芸術の批評を主題とするもの(文芸的公共圏)であったが、やがてそれは公権力行使の正統性を批判的に問う政治的機能を帯びるようになり(政治的公共圏)、市民による公共の議論によって立法や政策を方向づけるための諸権利、すなわち言論・出版の自由などの権利や参政権を獲得していった。
(略)
(齋藤[2012:396])

種村 剛(TANEMURA, Takeshi)
公共性/公共圏(publicness; public sphere Öffentlichkeit)

カントの思考は常に中庸だ。理性の機能の限界、独断論の限界、経験論の限界、懐疑論の限界、等あらゆる基準(カノン)の万能性を否定して、それぞれの道具(オルガノン)としての使用可能範囲を厳密に定義し、制限している。哲学の使用可能範囲も同様に制限した結果が冒頭の引用文として表れたのだ。

哲学の目的は真理を発見することではない。. カント『純粋理性批判』読書中 | by 北三百輝 | Medium

ハーバーマスはハイネを評価しているようで、ハイネを「詩人」と言ってしまうと簡単だが、時代を担う役割もあったらしい。

新聞や雑誌で、その直前に発表された新しい作品を評価するもの。日本では大正時代にこの方式が確立し、時評での評価が作家にとって大切なものとなった。しかし、1990年代以降、時評を掲載しない新聞や雑誌も現れている。

文芸評論 - Wikipedia

これは『文芸時評』を説明した文だが、ドイツにおいてはどうだったか。
雑誌『太陽』と『婦人公論』の時代である。

上は1968年のフランス(下)を支えたということらしい。

五月革命とは - コトバンク

見世物小屋」というのであるが、サーカス的なアーケードを生んだ、また「明証」を好む、フランス人らしい発想で、音楽産業における消費行動と結びついた「ムーブメント」と考えれば(フラワームーブメント、パンクムーブメント)と考えれば、大正時代にだってそれはあったと思う。すなわち、「余裕派」「高踏派」「耽美派」「白樺派」といったことだ。「派」というと何かしら高尚なことを想像してしまうが、19世紀科学革命の努力を無視した自然主義文学を見ればわかる通り、「ムーブメント」とほぼ同義である。

ロマンに棹差すと、「資本主義」は得体のしれないこととなるが、なに「流動性」と言ってしまえば、それだって、社会の連帯の一部に過ぎない。ただ、完全な理想を支える構造的なチープさがないだけである。戦後は、近代主義の「理想」は、モダニズムの「十分」「可能」にとって代わられたに過ぎないが、オカルトに拘泥するとよくわからなくなるだけである。

しかし、アリストテレスのカノン/オルガノンは、オッカムの論理的示唆/論理的包含を完成させたルターを経て、フレーゲの内包/外延の失敗を踏まえて、公理的な集合/対象に至っただけなのであった。その間に、ソクラテスの弁証的科学は、ライプニッツラプラスらの努力による証言/証拠の分別を経て、コルモゴルフの実証的科学に置き換わった。それでも、それらすべてがどれだけ何を嘯いたところで、人間の構成する社会のうちの話なので、オペレーション/アナリシスはいずれも有効な事実である。

それがわかっただけでも、人間は自然を少し克服したのだろうと思う。