『おひとりさまの老後』( 2007.7.12発行,法研)は上野千鶴子の59歳※の誕生日に発行されたアニバーサル的な何かであるが、それは出版事情に拠るのか、コマーシャルリズムなのかは知らない。

※「高齢者」とは今ではほとんど65歳以降の年齢区分であるが、昭和46年制定の「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」で「高年齢者」とは55歳以降の者である。
ただ、老人会の会員は60歳からと決めていることもあるだろう(☟note)。

それが「明治59年」だとすると、1927年(昭和2年)10月23日(改元日から起算;旧暦では、9月8日らしい。)は、今から96年前だ。
この年の2月に大正天皇大喪(葬儀)があり、11月に初の明治節があったらしい。面白いところでは、3月1日に、宮武外骨を事務主任として、東京帝大法学部に設立された明治新聞雑誌文庫が業務を開始したらしい。

昭和2年(1927年)、博報堂の創業者で外骨の友人瀬木博尚の寄付により、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献した。外骨は全国の旧家を回るなどして新聞・雑誌の収集を行った。これらの資料は文化史的に価値のあるもので、広く研究のための利用に供されている(後に明治新聞雑誌文庫は、東京大学大学院法学政治学研究科附属「近代日本法政史料センター」の一部門に改組)[16]
16  近代日本法政史料センター 明治新聞雑誌文庫

宮武外骨-Wikipedia

(1918年(大正7年)に第一次世界大戦が終わり、1923年(大正12年)に関東大震災が発生して、)3月14日の「東京渡部銀行がとうとう破綻いたしました」をきっかけに昭和金融恐慌が起こったらしい。
1920年(大正9年)には、初の国勢調査が行われた(世界統計協会から「1900年人口センサス」への参加要請があったのだが、延び延びになっていたらしい)。
「世帯」と「孤独」が焦点化された時代である。明治には、「家」と「変態」だった。
明治から(あの)「明治」となったころである。

色川大吉は発行時81歳で、2021年9月7日で亡くなったときには、96歳だったらしい。

おもしろかったよ。

彼のことを「面白かった」というと、それを「面白くない」と思う人たちがいるのは、ネットを徘徊する中で、なんとなく知っているのだけれど、それは彼が「商品化」しているからじゃないかと邪推している。
それ以上の想像力が自分にはないので、それはそこでやめておくとして。

☞note
老人会が、総動員体制の下、町内会の一部局としての統制される以前の自発的集会だったころの話がある。

生活と処世 (国民叢書 ; 第17冊)
徳富猪一郎 著 出版者 民友社 出版年月日 明33.6

ワーテルローの勝者、アーサー・ウェリントンは、長生きして政治家を続けたが、どうにも評判が悪かったらしい。彼は「元祖山縣」と言えるような「統帥権者」だったので興味深いが(「統帥権の干犯問題」が政治的な焦点に係る問題であることがわかる。歴史的事実の総てではない。つまり、議会政治も過渡期だったのだ。)、彼を46歳で死んでおけば云々、80歳で云々と腐した後、彼の妻が六十云歳で云々という話である。

80歳を「寿」の区切りとするのは、よく見かける。喜寿、米寿、白寿、卒寿とも違うので、近代的な区切りだろうか、名鑑にもなっている。

徳富猪一郎が誰かと思えば、「蘇峰」の号で有名なジャーナリストであった。
この頃になると、社会学も誕生し、そこでスペンサーを採り上げて老人会を云々することもあったらしい。


ひとつ思い出した。

学生運動が破綻したときに、官界に身を寄せた者の中には、「内から革命」と言い出す者もいた。
東浩紀という、或る種のルソー主義者は、「内破」という概念:言葉を弄した。

要は、「幾何的世界」に生きるとは、論理的には「内包的世界」に生きることであるから、こういう態度を必要とする。
しかし、「戦後」でない戦後、すなわち、ハーバート・ハートと英米哲学が切り開いてきたことは、そういうことではない。