複雑な経緯を持つ感受性にある外連味のなさの差

ASDの人は相手に気持ちがある事が分からない」説と言いつつ、「ASDの人は相手に気持ちがある事が分からない」から「腹が立つ」説で、ASDを責めている(のに隠している)から質が悪いんです。

おそらくポイントは「それ以上の人手は邪魔になるからと自分の中で判断した結果」で、自分が転んだときには、それで十分であって、この「邪魔になるから」という点で実は、自分が人を避けがちであるのではないでしょうか。

このとき責めている人が思っていることは、「自分はそうではない」ということです。
すなわち、この「相手に気持ちがある事が分からない」とは、「「自分はそうではない」ことがわからない」という括弧の中身のことを言っていると思います。

つまり、転んだ時の相手の気持ちへの解釈があるとき、自分の解釈と相手の解釈は異なり得るので、解釈の幅を織り込んで行動に転嫁することができていないということです。したがって、これは規範違反及び(これが重要ですが) 規範への共感 、、、、、、 を示して居ないことを責めているのです。
先ほどは、「自分はそうではない」という括弧の中身のことを言っていると言いましたが、これはお互いのことですので対等ですから負荷は平等である乃至平均されているはずですが、ここから 共感を求めるべきという規範が導かれている 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 ことが、このプラグマティズム(語用)の特徴です。

したがってあなたが受け取り損ねていることは、「ASDの人は相手に気持ちがある事が分からない」と指摘するときに潜んでいる「腹が立つ」ことへの解像度で、これは規範違反に対する怒りですが、その規範は、「共感すべき」という規範であるとき、それが「共感を行動に示すことが規範化されている」という行為規範のことであり、このとき、この「共感」の内容が、一義的には「相手の気持ち」が互いのことであるために、それを織り込んでなお行動に明らかにすべきという規範への共感を再帰化して二義的に求めていることが特徴です。

 

A「相手へ直ちに駆け寄る」
B「相手と周囲を観察して駆け寄る」

A、Bは互いにわからない。

わかるのは行動だけである。

共感すべしとは、共感が行動に示されて、初めて理解されることである。

相手の気持ちがわかるとは、共感すべしという規範が、共感が行動に示されて初めて理解されることだから、共感を行動に示すべきという規範への共感のことであることを伴っている。

「相手へ直ちに駆け寄る」ことである。

「相手へ直ちに駆け寄る」相手の気持ちがわかっていることと同じである。

「相手へ直ちに駆け寄る」相手の気持ちが分かっている。

 

という複雑な経緯を持っているのです。「相手の気持ちがわからない」ことである以上に、「相手の気持ちが分かる」ことへ至るこの複雑さへの理解の乏しさが特徴であると思います。「ふつう」の人はこれを外連味なく発揮できるのです。

ここで思い出していただきたいのは、箱の中身を言い当てる「アンとサリー」の課題です。

アンは、サリーが散歩に出かけている間に、サリーのビー玉をかごから取り出し、自分の箱に入れました。

サリー・アン課題とは?目的・内容とやり方をわかりやすく解説 - Psycho Psycho

もちろん、「ふつう」の人は、この物語の経緯を理解して(登場人物の感受へ直接反映させるのではなく、登場人物と「私」は異なる感受を持つことがわかり、その経緯を理解している「私」と異なり)登場人物の感受へ背景化(二重化)できるので、この「背景」乃至登場人物と「二重」化された解釈が「わかる」ということです。実のところ、同時に、「それを見ている」という「私」の背景も理解しているということです。

ここで最初の共感問題に戻ると、この課題を用いて指摘したかったのは、実は「一人駆けよれば十分」と思っていたのは、「私なら十分」という「私」のこのケースへの感受を相手に同様に投射していないかったか、ということです。
「私」の感受と「登場人物」たる相手の感受が異なるとき、それを背景化して、二重に解釈を施してなお、感受できるかが問われていると思います。

(いつもそうとは限りませんが)これに関しては、ADHDと比較した方がわかりやすくなると思いました。

ADHDの一部の人は、自分のことは棚に上げて相手を論うからです。このとき、ADHDの人に向かって「自分はどうなんだよ!」と怒りがこみあげてきたらしめたもので、「あれ、自分はどうだったんだろう」とその怒りが自分に向かってもおかしくないことに気づきやすくなるためです。相手に怒って初めて、同様に自分へ向かう可能性に気づくのです。ADHDの一部の人は、相手への怒りに終始します。貴方がADHDでないとすれば、相手への怒りに終始しないはずです。すなわち、相手への怒りが自分への怒りに転嫁することが、ADHDの人が言う「私」がその「私」に終始して相手の「私」へ向かないこととの比較で自覚され、その背景化された状況として理解できるからです。
とは言え、ASDもまたこの場合のADHDと同じで、何かしらを欠いているかもしれません。それはADHDの一部の人に見られる相手へ一方的に怒る様態と異なるだけなのかもしれません。すなわち、相手へ一方的に「遠慮した」解釈を施すことです。


整理しないとわからないな。すみません。

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この本でも「アンとサリー」の課題が出て来て、これはやっぱり発達に関して大事であることと、親の関与が十分であることがあらためて理解された。

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親による関与の中で、そういったことを無理なく十分刷り込んでゆく(訓練してゆく)こともあっていいのではないかと思った。

発達障碍は生得的な器質障害(によるコミュニケーションを主体する社会的困難を伴う障碍)で、適切な環境を欠いているために起こる「ふつう」ではない認知傾向とは異なる障碍だが、どうだろう、ADHDの衝動傾向は成長するにつれ(すべてではないのせよ)十分小さくなる場合もあると聞いたが(この場合、この成長経路も、生得的な発現オブジェクトなのだろうか。すなわち、障碍が単に「ある」「ない」ではなく、内発的な或る発現経緯乃至経路を伴って「在る」ことが障碍であるだろうか、もう少し日常的な伝え方をすると、未熟で在りかつ未熟なままでありがちかどうかである。)、ASDの(相互関与の)回避傾向の方は、成長するにつれ十分小さくなる場合もあるのだろうか?知らない。

「共感」というから難しくなるが、「相手を思い遣る」気持ちややさしさは十分ある。こちらの方は「ふつう」の人と比べても遜色なく「十分」であるように思う。

発達障碍を持った児童に関わらず、メタ認知の獲得が、10歳の頃にはすでになされているはずである。そういった理解を求める(子どもの実感が伴う)社会状況の説明を以て(ケースメソッド)、成長を促してゆくような対話(関与)が繰り返しあればよいかと思った。

難しいのは、「読解」(自分が一方的に読む)「対話」(相互に交錯して読む)「読み聞かせ」(一方的に読まれる。聞く)がそれぞれ異なる機能を以て独立に存在しているが、それぞれに有効だということだ。「対話」も相手の発言をテキスト化して読めなければ「対話」にならないただの「発声」或いは「唱和」となる。

「読み聞かせ」への批判も見たことがあるが、やはり有効だと思う。

発話の持つ、音色、語感や語調が、児童の心象風景を立ち上げてゆく、そこで情感が具体性を持って得られる経験は、声という刺激に促されていることが特徴で、人間の持つ基礎的な能力を鍛えていると思うが、どうなのだろう。

要は、それだけに終始すると、人間そればかりではない、ということではないかと思う。


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タルムードを推奨している人も居て難しいことばっかり言っても、いかがなものか、ということもあるし、自分の場合は、母親が学校の先生から勧められた(少し年長者向けの)道徳教本の読み聞かせ(寝物語)を聴いた経験からすると、そもそも児童の発達に合わせられているので、純粋に楽しい経験でよかったと思うのであるが(それまでは夫婦げんか―しかも私に対する罵詈雑言「産まなければよかった」—が子守歌だったこともあって、それを聞かなくて済むようになっただけ「天国」であったと同時に、十分安心して甘えられるようになったので、楽しかったと思うのであるが、よく考えてみたら、このジェットコースターは揺さぶりにもなっているので、やはりそこは気を付けていただきたいと思う。)

そういった意味で、親も成長する或いは親として成長する、というと何かしら違和感があるが(成長するって、人格としての完成体へ向かうべきだろうか?)、親もまた一人の人間として自覚してゆくべきだろうとは思う。

子育ての目的は、(最終的に)親子が対等な関係に立つことであると信じているからである。それはやはり「成長」ではないだろうと思う。成熟ではあるかもしれない。つまり、すでに(大人に)備わっているリソースの振り分けの適切さの問題ではないかと思うのだ。それを子に対しては惜しんでしまう。それが誤りだと指摘したいのだ。
「できる」けれど「やらない」のは相手を利益を、一方的にまた有害に、侵食してしまっているのだ。それを親子関係の前提とするのは誤りである。ここで謂いたいのは、相手の利益を侵食するときに一方的でなければよいことでもないし(相互性の否定)、浸食しなければよいことでもない(構造的な有害性の指摘)。

反対にこのような「難しい」本の巻末にも、アマルティア・センの用いた、兄と弟の簡単な挿話が載せられていて興味深く、実際に子どもに聞かせても無理がないように感じられる。兄弟が居るならば、経験しがちなエピソードと成っており、わが身に振りかえれば実感を伴って考えられるからだ。いわば『一休さん』のその次くらいに来るような難易度を持ったエピソードである。「10歳の壁」を考えたときに、子どもの論理性も育つ時期であるので、ちょうどよい塩梅でないかと思う。

ここで求めているのは、

  1. シンプルであること
  2. イージーであること
  3. 日常的訓練であること
  4. 道徳感情に根ざしていること
  5. ソルベーション(道徳的「構成」課題を感情的「反応」課題に結び付けて(適切に配置して;分解して取り込んで)、人格に統合する)・プロセスであること

ロジカルに考えることは、中等教育期間中の就活(進路相談)で考えればよいと思っていて、その基礎的準備をしておけば心配は減るが、そこにおいすら、順序に従って丁寧に考えられる精神的能力が求められているのに過ぎないから、ここでは簡単なことを続ける、或いは、いつだってもっとも簡単なことを訓練することを厭わない根気が眼目にある。

初等教育期間中は学活期と位置付けているが、これは学校教育と家庭教育を独立したこととみなしつつ(ここで「独立」とは「従属」でないという意味で、従属すると、それぞれのシェルター機能を喪失してしまうと思う。)、別なことを行うのではなく、補完的なことであり、また一方で、交換的なことだと思っている。

これはずっとそうで、中等教育期間を就活期、高等教育期間を婚活期とするのは、親=社会機能の定式化のもとで、学活を基礎に、学校より広い社会へ視野を広げるくらいの意味である。学校を無視しているわけではなく、「方法論的ロマン主義」と銘打ったところで、学校で現に行われている教育を、家庭教育用に整理して言い直しただけで、極めてオーソドックスな内容であると思う(そもそも、教員経験のある佐藤ママの実践の一般化を企図した内容であり、戦略上必須の目標を社会標準に置き直したのであるから、より平均的な学校教育に近づいていると思う)。大学の教員課程で、科目ごとに必要とされる単位を複数取得して専門的な訓練を受けた先生たちは、そういう言い方をしないだけである。学問とは個別に成立するからである。一方で、「方法論的ロマン主義」と銘打ったのは、スタイリングを施したのである。

"Styling" generally refers to the process of designing or arranging something in a particular way to achieve a desired appearance or effect. The term is often used in various contexts, including fashion, graphic design, interior design, web design, and more.

For example:

  1. Fashion Styling: In the world of clothing and fashion, "styling" involves selecting and coordinating clothing and accessories to create a visually appealing and cohesive look.

  2. Graphic Design Styling: In graphic design, styling refers to the use of fonts, colors, images, and other visual elements to create a distinctive and aesthetically pleasing design.

  3. Interior Design Styling: This involves arranging furniture, decor, and other elements in a space to create a specific atmosphere or style.

  4. Web Design Styling: In the context of web design, styling involves using Cascading Style Sheets (CSS) to define the presentation of a web page, including elements like layout, colors, fonts, and spacing.

In essence, styling is about the creative and intentional arrangement of elements to achieve a particular look or feel in a given context.

"Styling(スタイリング)"は、一般的に特定の外観や効果を達成するために何かをデザインしたり配置したりするプロセスを指します。この用語は、ファッション、グラフィックデザイン、インテリアデザイン、ウェブデザインなど、さまざまなコンテキストで使用されます。

例えば:

  1. ファッションスタイリング: 衣服とファッションの世界では、「スタイリング」は見た目を魅力的で一貫したものにするために服やアクセサリーを選択し調整するプロセスです。

  2. グラフィックデザインのスタイリング: グラフィックデザインでは、フォント、色、画像などの視覚要素を使用して独自の魅力的で美しいデザインを作成することを指します。

  3. インテリアデザインのスタイリング: 家具、デコレーション、その他の要素を配置して特定の雰囲気やスタイルを作り出すプロセスです。

  4. ウェブデザインのスタイリング: ウェブデザインの文脈では、レイアウト、色、フォント、間隔などの要素を定義するためにカスケーディングスタイルシートCSS)を使用してウェブページのプレゼンテーションを設定することを指します。

基本的には、スタイリングは特定のコンテキストで特定の外観や感触を達成するために要素を創造的かつ意図的に配置することです。